midunolog

日記を書きたい

モラトリアム

人生の不調を自覚した。自己実現のための行動ができていないことをストレスに感じていたのだろう。

そしていよいよ行動しないことの言い訳が使えなくなったことで、向き合わなければならなくなり、そしてそれを少しだけ受け入れた。

何もしなければどうにもならない。変化の単位が1年ずつだった時代とは異なり、社会人n年目のような基準は一定の年齢までを対象とする。時間が経ち、あぁこれは本当に現状を維持できたとして、その先も本当にそのまま現状が横たわっているだけなのだなという想像ができるようになった。

変えるためのアクションをとったものにしか、その過程の経験は得られない。そういうのを短くまとめた単語で成長と評されることがある。成長や課題、打ち手という言い回しについて、個人的には嫌な表現なのだけれど、腹落ちするためにこうしてテキストを書いて、自分に聞かせている。黒板…今はホワイトボード?に書かれた教養をノートに写して、それを見返して咀嚼するのと似たような感覚。よくわからないけど暗記している。

こういう状況にようやく自覚的になれた…というか、まぁ単に受け入れないことを諦めたというか。ようやく諦め始めることができた。

急に仕方ない理由でどうにもならなくなりたい気持ちは全然ある。自分は入院と呼んでいる。でもそれは、宝くじ当たらないかなぁという気持ちと本当に何も変わらないのだ。自分の周辺を変えるなにか劇的なことはキッカケなしには起こらない。そういう意味では、宝くじを買った人というのは、買う行為に踏み切れている時点で素晴らしいと思う。

別になんだって良くて、行動することがまず一つ目の基準にあって、それはその時点で達成されれば、結果はどうあれいい1日の理由にはなる。はじめたことははじめた時点で評価されていい。まとまりのない文章でも、私が感じたことなら、それは私が立ち返るための日記になる。

人生の積極的な終わりを諦めるために30年の時間がかかった。果たしてこれからどうなってしまうのだろう。

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何年かぶりに小説を読んでいたらそういう考えに至った。やはり本を読むことが好きだ。自分は小説を読む時間に思考を整理しているらしい。