midunolog

日記を書きたい

廊下の匂い

今晩は鶏肉をどう調理して食べようかなぁと考えながら、アパートの廊下を通る。  

ぼくの部屋は8号室と遠く、手前のいくつかの部屋の通気口からは風呂の匂いや、芳香剤、料理の匂いがする。

一瞬カレーの匂いがして、それを認識した瞬間にカレーが食べたい気分になった。カレーが食べたくなったけど、しかし冷蔵庫には鶏肉があるので鶏肉を食べるほかない。

そんなこと考えながら自宅のドアを開けて帰宅する。あらかじめ漬け込んだ鶏肉を調理しながら、今カレーを食べている人や、お風呂に入っている人が同じ水平軸にいるのだなぁと思うと、当たり前のことなのに、なんだか不思議な気持ちになる。  

ただの廊下の匂いだけで、自分の認識してる空間が広くなったような感覚が生まれて面白い。そんなこと考えてたら、隣の部屋のドアが閉まる音が聞こえた。  

もしかして、お隣さんの帰り道にも漬け込んだ鶏肉の匂いがしてるのかなぁと(そして鶏肉食べたくなるのかなぁと)考えると、ちょっと申し訳ないような、それでいてやっぱり不思議な気持ちがした。

ボイスメモ

人と雑談するとき、机の上にiPhoneを置いてボイスメモを取ることがある。

これが後で聞き返してみると、自分がどう喋っているか客観的に聞けて良い。
実際、ぼくはなかなかの早口で、かつやや声が高い気がするということがわかった。


いま携帯には、友人と待ち時間にした雑談や、家で飲み会をしたときの会話などのボイスメモが入っており、iTunesと同期させたミュージックアプリでバックグラウンド再生するなどして過ごしている。(ボイスメモアプリではバックグラウンド再生できない。)主に移動中や作業用BGMに聞いている。

最近聞いているのは初めてクトゥルフTRPGを体験したときの録音で、小説と雑談の中間のような…そんな3時間ほどの会話音源を垂れ流している。わちゃわちゃしているので愉快で面白いし、3時間もあればたいていの目的地に到着できるのでいろいろと都合が良い。

そもそもが、完全に個人の範疇で視聴する前提なので話す内容も気を使わないで楽でよい。一声かけて録音するようにしているので最初はお硬い雰囲気になるけれど、慣れたりお酒が入ったりしていると、録音されているという認識が薄まり、自然な会話が収録できる。もし気になるようなら、最初はアルコール入ってたほうがいいかもしれない。アルコールが入っていると面白くなる傾向があります。

ボイスメモ、ただ録音するときに開始ボタンをタップするだけで会話が録音できる。どういうコンテンツになるかは、話や話し方次第だけれど、状況によっては面白そうな話題を考えたり会話を楽しい方向に持っていこうとする意識がつくので、会話の練習にもなっている気がする。もし話すことに困ったら、あの頃流行ってたアレがうんぬんとか、そういう昔の思い出話をすれば大丈夫だと思う。

ただ話したり笑ったりしているだけの音声なのに、なぜか自然と気分が明るくなったように感じられて便利です。

恋と呼べるほどの強い体験

今週のお題「2017年にやりたいこと」

これは以下の日記にインスパイアされた記事です。

written-1natsu.hatenablog.com

名作なら一年に何本かは存在するし、それらを鑑賞もする。でも最近は自分の中に残らない。体験したという事実は覚えているけれど、3ヶ月もすれば、もうその時の感情は湧き上がってこない。

最近、アニメを最終回まで見ることが減った。具体的には、1シーズン平均で1.5作品くらいしか12話を完走していない。
かわりに、昔ハマった作品をもういちど見たり読んだりすることが増えた。そうすることで、当時の強い感情を思い出して、まだ自分には作品愛があるんだ。みたいな。自己催眠じみたことをしてしまっている。

そういう「当時の強い感情」とは、引用元にある「脳にズドンとくる感覚」のことであり、それはほぼ「恋」のようなものである。ように感じる。恋するほどにハマった作品ということです。

脳にズドンとくる感覚を一言で言いあらわすと恋としか言いあらわせなくて、でも誰でもなんとなくニュアンスは汲み取って頂ける感覚だと思うので恋ということにしている。 そういう感覚を味わう回数が減っているのはなんだか人生としてさみしい気がしていて、そういう感覚こそ人生の醍醐味な気がしている。

2017年にやりたいこと - ヒトナツログ

「すごく好きなモノ」を聞かれた時、昔の引き出しからしか話せなくなってきている。そんな状況に、危機感を覚える。 すごく好きなモノは昔のモノでないといけない必要なんてないのに、今の自分からはスッと出てこない。それがひどくさみしく感じる。
今年はもっと、あとで振り返った時に、あぁこの頃はアレの事しか考えてなかったなぁ…となるくらいの、強い体験をしていきたい。


以下は、熱がこもってこの記事を生成する前のTwitterの下書きです。

そもそも18歳以上対象の作品なのに、ぼくの好きなキャラが推定19歳なのがしんどい。最速プレイでも1年後は同い年で2年後は年上ですよ。毎年誕生日を覚えて祝っているのに、年々しんどい。もっと猶予をくれ。

これが言いたかっただけというのもあります。

昔のインターネット

失われつつあるインターネットについて憂いたり警鐘を鳴らしている記事をよく目にするようになった。

懐古的な内容ではなく、「俺たちのインターネットって、本来こういうものだったろ?」みたいな、現状を是正していく流れというか、何か訴えかける思いがこもった記事をよく目にする。

 

自分がインターネットに触れたのは小学5年の授業だった。当時はフロッピーディスクが流通していたり、Flashが主流の時代だった。

インターネットで動画を見たり、Webサービスを利用し始めたりしたのが中学生のころで、YouTube2ch等の掲示板を見たり、Amebaでブログを書いたりしていた。

そして高校2年で深夜アニメとエロゲーを知り、インターネットをヘビーユーズするようになった。 

 

こんなインターネット経歴なので、上記の「俺たちの(昔の)インターネット」にあたる雰囲気みたいなものにおそらく触れてない世代であり、正直なところそれが何を指すのかピンとこない。(そもそも上記のインターネットがどの時代を指すのか不明だが。)

ただ、そんなきっと昔にあったような、言外のマナーやモラルに基づく自治感のあったインターネットの、そのマイノリティな雰囲気を体験できていないであろうことを、少し残念に思う。

他人の思想

年末年始は実家で過ごす縛りにより、平時よりも極限状態に近い心理状態になるのですが、そういう極まった人間が次にどういう行動を起こすかというと、とにかく過去を振り返って思い出に浸ったり、大事なメモを見返して自分を見失わないようにするという行動をとります。

 

つまり具体的には、自分や他人のブログを読み返したり、リプライ欄を全部遡ったり、Evernoteの雑記や知見メモなどをひたすら眺めるということをします。というわけで、していました。

 

インターネットを本格的に使い始めたのは6.7年前なのですが、そこから振り返ってみると、自分を取り巻く環境はもちろん、文体や興味関心の変化、活動範囲の変化などの変遷が観測できてひじょうに面白みのある暇つぶしになりました。

 

遡っていて印象的だったのが、こんな移り気な自分にも何年も前から変わらずお付き合いさせていただいている方がいたり、ご自分の思想や信念が何年も前からブレることなく続いている方がたしかに存在しているということでした。

ありがたいことであり、素晴らしいことです。

 

それでふと自分に立ち返り感じたのが、これまであまり思想を残して来なかったような気がするというものでした。

Evernoteのクリップなどから見るに、自分は「他人の思想」に興味関心があり、それらを好んで収集、反応していたことがわかりました。

しかし、自分のこれまでの日記のコンテンツは主に「何かに行った、何かをやった」といった行動の記録であり、考えを放流するようなことはあまり能動的に行なっていなかったように感じています。これは何だか勿体無いように思いました。自分のこの日記こそ、他人から見た「他人の思想」ですし。

 

そういうわけで、これからはどこかに考えを放流する場所を作って(ここになるかもしれませんが)流していこうと思います。

それがまた誰かにとって何か得るものになれたなら素敵ですね。

 

 

下書きで見る2016年

しれっとブログを開設したので、このまましれっと始めていきます。

さて、年の瀬といえば振り返り記事なわけですが、あいにく今年の記憶が薄かったため(例年より行事が少なかったため)どうしたものかと悩んでいました。
では今年何をしていたかと言うと、今年はなにかとずっと悩んだり考えたりしていたことが多かったように思います。

あーでもないこーでもないと考えては止め、文章を書いては消したり、言葉をアーカイブしたり… そんなことを続けていました。
そんな、イベントも少なく考える時間の多かった中で、増えていったのは「下書き」でした。

今回はそんな下書きを供養すると共に今一度見てみることで、今年の振り返りとしたいと思います。 ちなみにこれらの下書きは、前回の供養(下書き - midunomemo)からの続きであり、その後約1年のあいだに生まれた「Twitterの下書き」です。(日記の下書きはまた別で存在しますが、今回は掲載していません。)


※キャプチャ画像内の時系列は、上にいくほど新しい日付に書かれたものとなります。

2015年12月から翌2016年5月くらいまでの間の下書き。
秒速を見たこと、風邪をひいたこと、春先からGWにかけての京都の混雑を体験している様子などが読み取れます。

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2016年5月から8月末までの様子。
何かと思うところがあったのか、半分ほどは8月下旬に書かれたものでした。また、7月までは欲求が漏れ出た雰囲気が観測できます。

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2016年9月初旬から中旬までの様子。 下書き生産力の高い月であった。と同時に、思考月間であったことがわかります。
これまでよりも短文が減っており、長文的な下書きが多くなりました。

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2016年9月中旬から2016年12月末までの下書き。わずか7記事しかなく、直近の下書きにいたっては、ついに文章を放棄して顔文字と絵文字のみになっています。

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Twitterほどカジュアルに感情発露ができるメディアであったとしても、こうして下書きは生まれ、残りました。そもそも下書きというのは書こうと思って書くものではありません。つまりそれらには下書きになるべくしてなってしまった理由があるということです。
そして下書きには、「書いた直後に満足し、全文消す程度では収まらなかったほど確かな感情」が残っているように思うのです。実際、より多くの下書きを生産した8月から9月までの夏については、いまだに感情を思い出せるくらいに印象強く残っています。

とは言っても「下書き」はあくまで「下書き」ですから、やはり何か思うところがあるのなら、まとまった日記にして残しておくべきだなぁと、この記事を書いていて思いました。結局、下書きというのは「残った」モノでしかなく、それをちゃんと文章として昇華することで、はじめて自分の中で整理され、区切ることができていたのだなと再認識しました。

振り返りをするためにわざわざ残すものではありませんが、しかしそこからアーカイブじみたものを見出したことで、普段とは異なる側面から一年を振り返ることができたのは、なかなかに面白かったと思います。

そんなわけで下書きについて長々と書きましたが、せっかくブログも新設したので来年からはちゃんと都度文章を書き残していきたいと思います。

来年もよろしくお願いいたします。